計算美学しよう! : 経緯

発案者である 畒見達夫 は、 これまで、人工知能や人工生命の研究をとおし、その1つの応用分野として芸術的創作にも挑戦してきた。 メディアアートの文脈において様々な出会いを経験し、 国内では、芸術科学会自然知能研究グループ、 海外では、Generative Art, ISEA, ICCC, Expressive, ALife, SIGGRAPH, SIGCHI などの科学と芸術を結ぶ様々な試みに触れるにつれ、 科学分野と芸術分野のパラダイムの違いの故の相互理解の困難さを実感してきた。 2016年に 中ザワヒデキさん が立ち上げた 人工知能美学芸術研究会 の会合に参加し、人工知能と芸術の両分野の方々のお話を伺う中で、 実践と討論をとおした相互理解の場を設けなければならないという思いが強くなった。

2017年3月28日の Facebook への投稿

畒見 達夫 3月28日 · 計算美学と計算創造性について、どっかで講義すべきなんじゃないかという強迫観念に襲われているんだけど、これは希望に変わるのか?需要ある?

2017年3月29日〜4月2日 Facebook 上でのやり取り

上記投稿への畒見自身のコメントから、グループ立ち上げまで。

畒見 達夫 Facebook グループ立ち上げますかね。美学と創造性は分けた方がいい? 創造性はアートに限らないし、美学は必ずしも創造的でなくてもいいわけですから。FB 以外にも、Google groups や Slack team はどうでしょう。Team View ってのもあるようですね。

3月29日 16:39

藤井雅実 グループ 良いですね。今日は時間取れないのですが、取り急ぎ確認のお返事を…。^^

3月29日 17:06

Takahiro Ikushima Facebook グループ立ち上げ大賛成です。 「美学と創造性は分けた方がいい?」はい。分けた方がよいと思います。まずは「美学」からでしょうか。。 Facebook グループ立ち上げ大賛成です。 できるだけ、一般の人を巻き込む形で公開グループとするか、関係者だけの「秘密のグループ」にするか、、どうでしょうか? Google groups はあまり使ったことがなく、 Slack teamの場合は関係者だけの使い方しか経験ないですね。Team Viewは?です。

3月30日 19:16

畒見 達夫 グループの素案です。名前:「計算美学の研究しよう」前振り:「美学 Aesthetics を「情報」や「計算」の視点から捉え直そうと思います。計算機での「美の評価」や「美の創造」を目指した研究をやってる(やりたい)人、神経美学とか情報美学とか、美についての進化心理学とか自然知能な人、伝統哲学的美学を超えて美を追求したい人、なんか新しい面白いことに首を突っ込みたい人、などなど歓迎します。AIではなく計算を冠するのは、知能とは切り離された美も対象としたいから。Expressive CAe のグループの活動に触発された部分もあるけど直接には関係はありません。」

3月30日 22:10

Takahiro Ikushima いいですね。大賛成です。「計算美学」の範囲が明確に伝わってきます。

3月30日 22:54

畒見 達夫 「の研究しよう」はやめて「しよう」だけにしますかね。芸術家にも参加してほしい。「研究をやってる人」→「研究や活動をやってる人」

3月30日 23:00

Takahiro Ikushima 「計算美学しよう」シンプルでいいですね。 「汎用人工知能について語ろう!」をまねますと、 「計算美学しよう!」 などもありえます。(笑)

3月30日 23:45

藤井雅実 計算美学というのは、ボクもまだ、畒見さんの発言などをはじめ、手探りで勉強している程度なのですが、次のコメントで鈴木さんが言われる「一般庶民」(鈴木さんご自身はご謙遜しつつかもしれませんがw)はともかく、芸術や美学などの実践者や研究者あたりにも呼びかけるには、より一般的に、IT美学やAI美学などの方が、偏見なく関心を引き寄せられるようにも思えます。 ずっと前、川野さんらが情報美学を展開された際にも、その情報観が、人文社会科学系からすると…いや自然科学全般からしても、いわゆる情報理論のフレームに特化されすぎていたことが、その広がりを抑止してしまった、という事例もありますし。

3月31日 2:50

Takahiro Ikushima なるほど、「IT」、「AI」、「情報」なども候補ということですか、 最近の「計算」の売りは計算社会科学のように社会科学系への浸透にあると思います。「計算」の方が上記3者より、よりアルゴリズミックであり、境界面を追求する姿勢が見える気がします。 しかし、日本でも最近、メディアと自然科学とコンピュータサイエンスが融合してきているようです。 結構この観点も面白いと思います。 #超AI時代の生存戦略 (落合陽一,2017)の10分解説

3月31日 9:15

藤井雅実 落合さんのお話、Ikushimaさんが先に投稿されたノート含め、さらっと拝見しました。。  途中で出てくるアマルティア・センを参照した、功利主義の理念「最大多数の最大幸福」は不可能ゆえ、何より「最小不幸」をベースとする修正功利主義への提言は、数学的に言えば、ダブルオプティマム(二重最適化)の不可能性問題への対処、ですね。ゆえに、センの修正はまっとう。ベーシック・インカムなども、近代の理念である自由と平等と友愛の実装、という観点からしても、自由と友愛を可能とするためにも、両者の最大値を社会的に求めるのではなく、生存基盤の平等な確保こそを(それぞれの人の不確定な自由のための)優先条件とする…という意味で、妥当でしょうね。

 こうした、倫理規範や制度設計に関しても、以前、Ikushimaさんや沖啓介さんと自動運転車に関してチラと話した倫理思考実験のトロッコ問題やそのヴァリアント含め、美的規範問題共々、さまざまな規範問題に、今後、AIがどうか関わりうるか、これも広い意味で、計算美学にも関わってこざるをえなくなると思えます。

 他方、アリストテレスやカントやヘーゲルなどの古典美学からデリダやジジェクなど構造論系美学や他方の分析美学などの人文的タームを、AIに実装しうる形式言語に変換しうるか、これは、ボクのような立場の側の責任も大きくなりそうです。大変そうですが、実に楽しそうでもある^^

4月2日 18:49 · 編集済み

Takahiro Ikushima まったくそのとおりと思います。。

3月31日 10:02

畒見 達夫 (ややトゲ有り注意)AIは本来そうでなかったにも関わらず IT の一部になってしまって、最近は、なんか複雑なマジックみたいなことやる IT を AI と呼んでしまってる節があります。人々が生活のそばにある道具やファッションやサービスに結びつけて考えたいというのは極自然ですし、日本経済の立て直しを第1政策目標に掲げる政治家や官僚が産業応用の目でしか見ないのも自然ですけど、研究者や芸術家は形而上のレイヤも考えないと自滅でしょ(お金にならないけど)。AI〇〇は「AI美学芸術研究会」もあることだし、カーツワイルのシンギュラリティ云々はそちらでやってもらって、棲み分けたいという意識もあり「計算 Computational」にこだわりたいのです。先日のAI美芸研でそれぞれのお話を聞いて、芸術関係者が本当に欲しているのは AI じゃなくて、計算美学の方じゃないかと、また、工学系の方では非常に素朴で時に蔑視の対象とまでするような芸術観しかもたない AI 研究者が多数だと感じたので、最初に書いた強迫観念になってしまったわけです。いや、もしかしたら中ザワさんがやりたいのもこっちかもしれないですけど。形而上の話も古典的には自然言語で語られてきたわけだけど、当方はもうレトリックだらけの自己満足的言葉遊びに嫌気がさしておりまして、10年前くらいから進化心理学や進化経済学的なアプローチがその突破口になりそうに感じて、本当にやりたいのは「進化芸術学」とでも呼ぶべきものなんだけど、とりあえずその基礎として既に始まっている計算美学と計算創造性の動向は押さえないとしょうがないと感じた次第です。

3月31日 11:12 · 編集済み

藤井雅実 畒見さんの思い、その「トゲ」も含め、多くの部分、共感できますので、トゲについてはご安心を…。

 ボクも実は昨日の投稿した後、畒見さんの「計算美学」という言葉の選択の背景考え、おっしゃられる方向に思いをはせました。たしかに、AIでは、中ザワさんのAI美芸研との差異も出ませんし、より広い枠でも情報美学や他の先行研究との差異も示しにくいですもんね。

 他方、畒見さんが、工学系のフィールドで感じられている「素朴な芸術観」、これは他方の「素朴な科学観」と対となって、人文系やそれとまた異なる社会科学系など、それぞれのフィールドでそれぞれに異質な素朴性は、時代によって変化しつつも常に広く蔓延らざるをえないでしょう。専門研究者と言えども、一方では、異分野に対しては素朴な素人だし、他方で自分の専門領域においては自意識では高度のつもりでも、その基盤を捉え返すと、気づかぬ素朴さに依存していることは多々ありますね。

 芸術に関しても、美術史など実証学系の人々の多くは、理論的には時に驚くほど素朴ですし、また、高度な理論系でも、伝統的な脈絡では、フランス系、ドイツ系そして英米系などの傾向差は今もあり、相互に異なる学統の理説には素朴すぎる無理解も多い。

 畒見さんが言われる「レトリック過剰」は、特にフランス系の20世紀後半に先進諸国の先端文化でフィーバーした構造主義系の議論に強く、90年代半ば、物理学者ソーカルが起こしたソーカル事件によって、その過度の衒学性が俎上に挙げられた。ソーカルは、フランス系ポストモダン思想家たちが乱用する数学的比喩のあまりのいい加減さなどを突き、その議論の見せかけの過激さを糾弾したのですね。

 ソーカルらによる人文系先端理論…今も日本でも欧米でも一部の人々に信仰される哲学者ドゥルーズらの衒学性への批判は、確かに一面の重要な妥当性がある、とボクも評価します。

 しかし、そのソーカル事件から広まったサイエンス・ウォーズと言われる騒動は、別種の信仰…新たな素朴さ…も惹起してしまった。

 ポストモダン思潮や先端人文系理論と言えども、それも自然科学系同様、一括りにはできない多様なものがあります。その多様な意義や可能性を、特にフランス系に顕著だった「過度の衒学性」への批判において、すべて否定し去ることは、産湯と一緒に赤子を流すことに等しいし、産湯と赤子の差異も看過する、素朴な知的怠惰に陥ってしまいますよね。

 別の観点から捉えれば、フランス系人文社会諸科学における比喩や寓意の乱用は、実はフランスが中心に展開された、市民革命前の啓蒙思想から続く、近代の文化的革新のコアのところで、思考を生産的に展開する媒介として働いていた、とも言えます。フランス啓蒙主義からドイツのカントやヘーゲル、ベートーヴェンやシラー、ゲーテ以降のロマン主義への、まさに人類史上画期となった文化の大山脈の展開は、常に新たな概念や語法の創出や構成と共に展開されていました。(この点は、言語哲学的にも比喩抜きで精密に記述することもできます)。

 そうした、比喩や寓意など、言語の非論理的機能…修辞的・美的機能についての意義を、ソーカル的な人文批判はあまりに過小評価してしまった。

 確かに、20世紀末のフランス現代思想は、その伝統の意義を差し引いても過剰な衒学性があり、それは日本バブル期のニューアカデミズムと呼ばれた文化流行にも功罪を刻みましたが、しかしその生産的な面は、今なお無数の可能性を秘めてもいます。

 長くなりすぎましたが、要点は、何事に対しても、数理的な観点も、修辞的な観点も、自然言語での論理的観点も、それぞれがそれぞれにとって有利な世界把握と、苦手な世界把握があり、いずれかに還元して済ませてしまっては、世界を縮めてしまう負の信仰になってしまう、ゆえにこそ、私たちは、形式も内容も手段も、多様な方向への鋭敏なセンスとスキルを開いておく事こそ、私たちの世界経験を豊かにするためには大切だろう、ということです。

 畒見さんの挑戦もまた、そうした新たな次元への一つの道なのでしょう。

3月31日 20:14 · 編集済み

Takahiro Ikushima 盛り上がってきて楽しいです。 畒見さんのおっしゃAIとITの関係ですが、一般の人はITもわからないので、IT==AIでしょう。 次は専門家の人ですが、この人たちはAI==機械学習orロボットで使っていると思います。 もう少し、DL流行の中ではAI==DLとなっていたと思います。 最近は若干緩和で、AI==DL+強化学習+進化計算+ベイジアンネットワーク(+シミュレティッドアリーニ)でしょうか?

個人的には、その人がどのカテゴリーの範囲かで使い分けています。

AIなど上位概念の語彙の宿命と思っています。

「レトリック過剰」につきましては、私が一番辛口なのかも知れません。(笑) 哲学に対する意味の曖昧性は、形而上学と形而下学分離された時から、物理系(形而下学)の批判ですよね。恣意性からの脱却を目指して自然科学は生まれたのでしょう。 従って、そのような感覚を、歴史的記述の教科書、情報で学習した物理、数学者は、幼少のころから持つようになります。脳構造がそのようになるのです。

ソーカルが起こしたソーカル事件はその実験をやっと行えたということで評価されると思います。それは現実と思います。

ここで、現在の近未来テーマ、自然言語の意味理解が人間を超える日を考えてみましょう。これは、初等教育では、出題者の恣意性のある意味論を試験問題にして、意味がわかっているかどうか判定するテストがあります。これは哲学者に対して行ったソーカルテストと同様です。このことは、人間は意味理解において不完全な場合が多いということです。AIがこれを超えるテクノロジーを作らなければなりません。

その時、計算美学は当を得ているのです。畒見さんの場合は、性淘汰の例から類推しますと、心理学的、生物学的、化学的、物質的立場からの追求のように見えます。 私も、その立場は重要視しているので、「計算」という言葉にこだわっています。美学、創造の原点であるかもしれない、生命とはです。 どこで自己複製できるようになったのか?、RNAワールドからDNAワールドへの相転移は?プリオンのような物質の自己複製が原点なのか、物質が振動して、移流して、拡散して、偏りが起こり多様性が現れそれが固定されたのか?そのような疑問からの発展と考えられるからです。 性淘汰は遺伝子レベルの淘汰なのか?、環境学習が関係するのか?エピジェノミィックスは?と色々仮説が考えられるわけです。

個人的にはもう一つ、セマンティックWeb、オントロジーの立場からの美学追求をしたいわけです。従って、藤井さんのような哲学系の人の、自然言語による言明集、すなわち知識ベースが欲しいのです。遺伝子はヒトゲノムなど21世紀になり大分集まりましたが、上位オントロジー(哲学的な意味での)知識ベースはまだまとものがないと思います。英語版Wikiは大分あると思いますが、自然言語です。これが何らかの形式的記述ルールでDB化されなければどうしようもないわけです。

数学についても同様です。ブルバギが集合論の上に現代数学を厳密かつ公理的に打ち立てることを行って以来進歩はとまっています。 自然言語は少なくなりましたが、やはり形式的記述で数学は表現できていません。従って証明も人間が検証しなければならないわけです。 ソーカルテストは面白い課題です。ドゥルーズたちはこれを認めたということは、評価して意味のある理論だと思ったわけです。それで胸を張ればいいわけです。ソーカルは問題を作りました。交叉と突然変異で、ドゥルーズたち評価関数は価値を認めたわけです。ソーカルは意味の無いものを作ったと思っていたのにです。 この違いは重要で評価系の違いによって解釈が違うという事実です。これば、データマイニングなどでも既に起こっています。なぜ解釈が違うのか(バイアス)の追求は、ある意味、美意識の違いを追求することになると思います。 そこを汎用的に見せる方法が今のオープンプロブレムと思っています。

クリータとオーディエンスの非対称性、オーディエンスは実は評価関数、従ってクリエータのクリエータでメタです。もちろん天才と呼ばれる人たちはクリエータですが、しかしオーディエンスでもあり、一級のオーディエンスでもあるわけです。 そのからくりも脳科学で大分追求されてきており、社会現象も経済学、政治学、社会学から評価体系が見えてきています。

ということで、個人的にはどちらの方向からのアプローチも重要でかつ魅力的、そして相互利用出来る可能性もあると思います。双対性まで行くかどうかはわかりませんが、、 「計算」という語彙を考えてもその意味は、現在広がってきています。私など、アーティストは「計算」していると言いたくなります。 ポアンカレが「科学と方法」で数学的審美眼がなければ、数学的発見はできないと言ってから100年あまり、漸くその問題を脳科学とAIが突き詰めようとしている現代、若い人にとっては血湧き肉躍る時代かと思います。

4月1日 2:48 · 編集済み

畒見 達夫 グループ作りました。 https://www.facebook.com/groups/JSIGCAe/ 続きはそこでやりませんか? 計算美学しよう! 非公開グループ

4月2日 17:30


2017.6.1 畒見達夫