うねみたつおのいろいろ


れきし

ハイパーテキストで書く自叙伝つうわけだ。 公開に耐えることしか書いてませんから悪しからず。 他人のプライバシィとか利害に関係することや、ちょっとやばい話とか、 恥ずかしい話などはオミット。

2007/8/27 更新

昭和31年1月26日午後6時、 石川県 金沢市 の県立中央病院にて、畝見外誉雄、芳子の 長男として出生。当時、中央病院は犀川に架かる御影橋の側にあった。 自宅住所は金沢市横山町3丁目。 兼六園の近くである。 兼六園は入場無料だったし、今ほど観光客も来なかったので良く遊びにいった。 家族は父母と1歳半上の姉、そして母の父つまり祖父の5人。

昭和32年、赤痢にかかり、中央病院隔離病棟に入院。本人は全然覚えていない。 これは両親から聞いた話。

昭和35年、 内灘村アカシア団地に転居。道はもちろん舗装されておらず、馬なんか もはしってたりした。金沢-内灘間の 北陸鉄道浅野川線 にはダブルルーフのポール式の電車が走っていた。手動ドア、室内照明は白熱灯。 夏だけ海水浴場のある粟崎海岸まで延長運転された。 向粟ヶ崎保育園つばめ組に編入。 内灘村(その後まもなく町になった)は貧乏だが面白いところだった。

昭和36年、鼻ジフテリアにかかり、またまた中央病院隔離病棟に入院。 鼻がよく詰まるようになり、なんだか幕がはったようになった。 そのうち高熱がでて近所の医者 (金沢市蚊ヶ爪の高松医院) に見てもらったら、 すぐ病院へ行くようにいわれたようだ。

昭和37年、向粟ヶ崎小学校入学。「はしか」にかかって、入学式にでれなかった。 1学年2クラスの小さな学校だった。

昭和37年10月。伯父(父の兄)の勧めで、 創価学会に入会。主に、私と姉の健康を 思って入信に踏み切ったということである。

小学校2年くらいからプラモデルに凝りだし、毎月、祖父にねだって アカシア団地商店街のヤマダで100円から300円くらいのを買っては作った。 よく、友達が買ったプラモデルをいっしょにつくったりもした。

小学校5年のときに、祖父が宝くじで1万円をあて、そのお金で HOゲージの 鉄道模型をかってもらった。それ以来、プラモデルから HO に転向した。 親友の松浦君が先に HOゲージに手を出していたので、それに習った感じである。 最初に買ってもらったのは、カツミのレールと ED58の組み立てキット。 そしてもちろんパワーパック。6年のときは、しばしば松浦君と共に 広小路の北陸模型に電車、バスを使って出かけた。

昭和43年、 創価中学校 入学。出来たばかりの学校。当時は中学入試など受ける ものは珍しかったし、塾といえば習字とソロバンぐらいだっかたら、 特に受験勉強などというものはしなかった。 入試のために国電に乗ったとき東京弁の会話が聞こえて来た。 テレビドラマでしか聞く機会の無かった言葉が普通の会話で使われているのが 思わず吹き出しそうなくらい可笑しかった。 親元を離れて寮にはいった。 厳しい面もあったが、ほとんど毎日就学旅行的状態でこれまた楽しいものでもあった。 最初の1年半は今 野球部 の合宿所があるグランドそばの寮だったが、その後は 今中学が建っている場所にあった栄光第1寮に移った。

昭和43年9月、祖父康吉死去。その年の2月ごろから体調を崩した。 直腸癌だった。夏休みに帰省している間に歩き回れるくらい元気になったが、 寿命を全うしたかのように静かに息をひきとったということであった。 自分は、東京の寮にいたので、死去の連絡を受けて、急いで郷里にかえった。

昭和46年、 創価高校 に進学。受験勉強のかわりに、中学3年で高校の数Iなどを やったりしていた。

高校では バスケット部 にいたが、身長もないのでレギュラーにはなれなかった。 男子校だったから、マネージャーの役もやった。 HOゲージも寮で続けた。ペーパーで 157系EC、35系DC、10系PC などを作った。 寮では寺口君と藤原君に鉄道模型の趣味をうつしてしまい、一緒に国分寺の 小さな模型屋とか三鷹のトリオ商会に部品調達に出かけた。 寮では6人ぐらいが同じ部屋にいたが、日曜日に部屋いっぱいにレールを 引いたり、塗装で部屋中シンナー臭くしたり、今、思うとなんと迷惑なやつだった だろうと反省する次第である。すいません。

中学3年の時に親にラジカセを買ってもらい、その後、ジャズにのめり込んだ。 昭和46年はちょうど Weather Report が来日した年だった。昭和47年の正月に 金沢の山蓄片町店で始めてLPを買った。Weather Report のレコードを見ていたら、 お店のお兄さんに 「Vitous なんかどう?かけたげっし」と言われて 聞いてみると、なかなか素晴らしい!んで、Miroslav Vitous / Infinite Search が私が自分で買った最初のLPになった。

小学生のときに集めた某スタンプと引き替えたウクレレを寮に持ち込み、 吉田君にブルーノートなどを教わってアドリブの練習をした。

昭和49年、東京工業大学 第4類入学。創価中学の1期生で高校は4期生だっが、 何故か東工大へ入ったのは自分と1浪で一緒に入ったもう一人の先輩がはじめて だった。

入学時は世田谷区尾山台の林アパートにいたが、建て替えるということで、夏に 奥沢7丁目の小幡荘(九品仏駅のすぐ裏)に引っ越した。 引っ越しは、中学、高校と同級だった渋沢君や創価学会の学生部の先輩に 手伝ってもらい、 武蔵工大から 借りたリアカーで済ませた。

大学では、創価学会系の東洋思想研究会鉄道研究部 に所属し、半々の活動。合宿は出来る限り両方に参加した。

昭和50年、制御工学科に配属。4類の中では人気の学科だった。成績の中くらい だった私が入れたのはラッキーとしかいいようがない。

鉄道研究部では、主に模型派であったが、マミヤの2眼レフ C220 を手にいれて、 鉄道写真もしばしば取りに出かけた。模型では、経済的理由から、 台車を手作りするなどというマニアックな方向へ走った。 路面電車ガイドブックの作成にも携わった。

東思研では、セミナーをやったり、人間革命の映画を借りて来て大岡山の講堂で上映 会をやったりした。朝、正門の前でセミナーや上映会への参加を 呼びかけるビラを撒いたりしたこともあった。3年のときは、このビラを作るのが 自分の役目であった。それまでは、文章を書くのが苦手だったが、 毎日ビラを作っているうちに、比較的苦なく書けるようになった。

昭和52年、市川研究室に配属。最初はロボットに興味があって、森政弘教授 のところに相談に行った。一念三千がどうのこうのという話をしてるうちに、 「君はシステム系の研究室のほうが合いそうだ」とかいわれて、 市川研究室を希望することに決めてしまった。

昭和53年東京工業大学工学部制御工学科卒業。卒業研究は 今で言えば「強化学習する人工生物」というようなものをやった。 最初は研究室にあった日本ミニコンの NOVA (64KB core memory + 2MB disk) を使っていたが、 総合情報処理センターに TSS 端末が入ったと言うので、そちらに 切替えた。学習しながら餌を求めて歩きまわる虫のシミュレーションである。 グラフィック端末は対話型で使うようにはなっておらず、 虫の足跡をカードで出力し、研究室の NOVA にデータを移して表示した。

同期の川北君は出たばかりの AppleII をつかって集団意思決定支援システム の試作などをやっていた。言ってみればCSCWである。 今思うとなんと先進的であったことか。

昭和55年同大学院総合理工学研究科システム科学専攻修士課程修了. 人工生物など、まだ学問として認知される土壌ではなかったので、 市川教授のアドバイスに従って、自然言語処理の研究をやった。 電総研の 推論機構研究室に出入りし、黒川さんが作った TOSBAC 5600 上の LISP2.0 を使わせてもらった。当時の室長は 田中穂積先生、 修論のテーマは拡張LINGOLのn-進木への拡張。 パターン情報部の部長は確か淵一博先生であった。そこで、 佐藤泰介さん松本さん井佐原さん達に出会った。 理科大 溝口文雄先生と始めて会ったのも永田町の電総研だったと思う。

修士2年の夏休みに研究室が大岡山から長津田へ引越しになったが、 私は申し訳ないことに某所でソフトウェア開発のバイトをやっていて手伝わなかった。 電総研も 永田町から筑波に移った

昭和55年同専攻博士後期課程に進学。電総研から東工大に戻ってみると LISP がない。 ちょうど修士2年の暮れに専攻の計算機として MELCOM-COSMO 700 III UTS/VS が 入った。いわゆるスーパーミニコンである。RS-232C 1200BPS の TSS が主体で、 CRT 端末を各部屋に配置しスター状のシリアル回線ネットワークが構成された。 その上に LISP1.5 と移植されたばかりの Interlisp があった。 なにせ、LISP1.5はバッチ前提、Interlisp は重い。LISP2.0のように軽快に 対話型で使えるものがなければ、やる気も起きない。 というわけで自分で作ることにした。それでできたのが LISP1.9 on MELCOM COSMO である。全てアセンブラで書いた。その前の年に東大で近山さんが UTI-LISP を 公開しており、黒川さんの LISP2.0 と合わせれば日本製マシンでもようやく快適な LISP 環境が揃ったことになる。当時日の丸計算機政策のせいで国立大学では DEC の 計算機はなかなか買えなかった。

LISP1.9 on MELCOM COSMO は、 東大教育用計算機センター、 KDD研究所、 小樽商科大、 神戸市立高専、成蹊大、京都教育大、 九州芸工大 などのマシンに移植させていただいた。 東大に行ったときに、戸村さん、寺野さん、中島さんたちと出会った。

博士課程になると、まだ学生であるという身分を有効に利用したくなるものである。 その翌年に東京都議会選挙があり、世田谷で 公明党の 桜井さんの支援に精をだした。 結果は断トツのトップ当選。やっぱ勝つといいもんですね。

その後、遅ればせながら運転免許を学割で取った。

昭和56年10月同専攻博士後期課程中退. 同専攻助手. 当時、行革が叫ばれ始めた時で、できるだけ必要な空きポストを埋めることになった。 市川研究室ではその年の春に 小林重信先生 が助手から助教授に昇進し、助手ポストが1つ空いていた。 そこへ当方がはまったというわけである。 後に長岡で再び出会うことになる川田重夫さんといっしょに助手の辞令を受けた。

昭和57年には所沢 西武球場で 創価学会の第2回青年世界平和文化際というのに出た。 趣向をこらしたマスゲームをつぎつぎと繰り出すもので、北朝鮮の方々も得意 とする分野である。自分は体力も強いほうではないので民謡風の踊りに出場した。 この練習がまた結構きついがおもしろい。元来、踊るのは嫌いではなく、 今ではまったく行かくなったが、盆踊りもディスコも大好きなのである。 マスゲーム風に大人数でやるもんだから、団結というか息を合わせるというのが、 重要なポイントになる。みんな仕事を持っている若者なので、練習にあつまるのも 大変である。集中力とか団結とか気合いの入れ方とか、いろいろ訓練になった。 苦労して練習した成果を大勢の前で演じるのは感激ものである。

昭和57年11月町田市成瀬に引越し。姉も結婚して家を離れ、外航船員だった父も 定年退職になるということで、石川県内灘町の家をひきはらい長津田の近くに家を たてることになった。56年の暮れから57年にかけて町田市内付近をいろいろ探した 結果、宅地造成が盛んに行われている成瀬に土地を求めることにした。 地方からの家探しは結構大変である。頼れるつてもないし、今の家を売ることも 考えると、全国ネットの大手業者に頼むしかない。幸い成瀬に駅から徒歩15分、 南西斜面の日当たりの良いところが見つかった。田舎にくらべると地価は数倍である。 庭などと呼べるようなスペースはとれないが、斜面を利用した地下車庫にすることで 結構スペースは有効につかえた。

町田では創価学会男子部のいろんな人に巡り合った。世田谷でもいろんな人がいたが、 学生と社会人では幅の広さが違う。なぜか職人さんが多かった。 まあ、自分も工学部で職人のようなものだから現場の話など聞かせてもらうのも 面白かった。今でも、近所の学会員の壮年の方々から現場の話を聞くのが楽しみである。 人間なかなか自分の分野の近くの人としかつき合う機会がないものだが、 私の場合は創価学会で様々な社会的立場の人とつき合う機会があり、 その経験が人生を豊にしてくれるように思う。

助手になってからは、LISP を使って、エキスパートシステム開発ツールの いくつかの基本的な仕掛けについての試みを行った。 1つは並列実行型のプロダクションシステムで Co-PSs という変な名前をつけた。 これを使って参考文献リストの構文解析ツールを卒業研究の学生が作成した。 その前年に修士論文で、LISP を直接使って同じテーマに取り組んだ後輩が いたが、結果はあまり芳しくなかった。しかし、ツールを使ったほうは なんとか動いたのである。高級言語の意義がここにもあると実感した。

世の中では通産省の大型プロジェクトで俗にいう第五世代コンピュータの 開発が始まった。電総研の人達も大勢参加していた。修士の時にお世話になった縁で、 溝口先生が主査を勤めるワーキンググループにいれてもらった。 人工知能の先端情報を得ることが出来、たいへん刺激的であった。 元田さん、 渡辺正信さん、丸山さんらと出会った。

その後、小川均先生が主査を勤める分散協調システムのワーキンググループにも 参加した。今では脚光を浴びているマルチエージェントも、当時は何やら 得体の知れない際物といった雰囲気だったが、横尾さん、久野さん、 渡辺さん、 北村さんらの話も非常に面白かった。

溝口先生に引っ張られて認知科学のセミナーにも出た。元来、 人間について研究したいという気があったのでこれも自分にとっては刺激的であった。 理科大の野田キャンパスでの合宿では、大村先生、波多野先生、 新谷虎松さん、 と出会った。その後、 日本認知科学会 が発足するが、その発起人にもいれてもらった。 第1回の認知科学会大会では、卒研でやった人工生物の研究を発表した。 かつて fungus eater を作ったことのある 戸田正直先生 にもコメントをもらえてなんだか嬉しかった。 やっと自分のやりたいことを発表する場ができなのかなあ とそのときは思ったが、人工生物はまだ変わり物のやる遊びのような評価しか なかったように思う。

研究室には Xerox 1100 SIP、その後国産版の 1121 が導入され本物の Interlisp, LOOPS, SmallTalk80 の環境に触れることができた。 これらの GUI を駆使したプログラミング環境はなかなか秀逸で、 現在の XX Workshop や Code Wxxxx のように、編集、デバッグ、モジュール管理、 バージョン管理などがGUI ベースで対話的に行えるようになっていた。 その後、UNIX ワークステーション一色になり、emacs, make などで C のプログラム をいまだに作っているのは何とも情けない。 ハッカーとしてはアセンブラ使ってない分、中途半端だし。

助教授の小林先生もいろいろ知識工学関係の仕事に励まれ、 JIPDEC の人工知能研究動向調査にも加えてもらった。

昭和62年11月長岡技術科学大学 工学部計画・経営系講師。結婚。

前述のJIPDECでの成果が知識システムハンドブックとしてその後出版された。 その調査費で海外にも行かせてもらった。

長岡は 噂通りの雪深いところで、田舎の車社会には雪は非常に厄介なものであった。 元もと、雪国育ちではあったが、海沿いの内灘とは雪の量が桁違いに違っていた。 雪掻きではなく雪掘りである。植木の雪づりも長岡では縄など使わず板切れで 木を囲んでしまうのである。

長岡では 情報処理センターの仕事もさせてもらった。前任者は 小林史典さん だったが、九州工大の 情報工学部に移ったため当方があとを引き受けることに なった。小林さんの前任者はこれまた東工大制御出身の 原辰次先生 だったということであった。 ちょうど機種選定の時期にあり、学内での交渉が結構大変だった。 コンピュータ間の広域ネットワークと LAN が普及し始めた時期で、 学情ネットはまだ N1 という独自規格のプロトコルを運用していた。 そこで、N1と TCP/IP を両方サポートできる機種ということで、 Data General の MV/20000 になった。OS も AOS/VS と MVS という UNIX もどき をいれた。これはこれなりに結構快適だった。 KCL のオリジナル版が使えたというのもよかったし、研究室の NEWS ワークステーションや PC-9801MV と LAN で直接やりとりできるのもよかった。

自分はどうも機械系の人達とはうまが合うのだが、電気系の人達とは どうもしっくり行かない癖がある。機種選定だけでなく、その後の運用でも 電気系の幾人かの先生方と若干ぎくしゃくした感じになってしまった。 まあ、こちらが勝手にそう思っているだけかもしれない。

自分の所属は計画経営系というその他大勢を寄せ集めたようなところで、 数理、社会、人文、語学、体育、教育などいろんな人がいた。 どこの大学でも同様かも知れないが、ここでもいつも系会議はめちゃくちゃだった。

平成元年に長男が生まれた。自分が赤ん坊をあやすなどとは想像もできなかったが、 やはり自分の子どもは可愛いものである。病気をして立川病院に入院したことも あった。火傷をして曽根の医者まで車で通ったこともあった。 この医者は独自の療法で火傷の後をまったく残らないような治療をしていた。 今になればいい思いでである。

長岡でも創価学会の活動に参加した。私はそれほど抵抗はなかったが、 妻は地元の人達の喋る言葉が全然理解できず、最初は苦労したようである。 方言の味わいというもの面白いものである。私は研究室のワークステーション のマシン名として najira と kotza というのを付けた。 「あんさん、なじらね」「ああ、ええこっつぁ」という会話?から取った。

都会の夜が好きだった私にとって田舎暮らしは最初は大変退屈なものだったが、 1年もたつと、それなりの楽しみ方が分かって来る。とにかく都会にないもの といえば日常的なアウトドアライフである。宿舎の裏で畑を耕し、キュウリ、トマト、 インゲン、などを作った。車で山や海に出かけても、日曜でも渋滞などまったく 無く20分ぐらいで着いてしまう。

研究室が独立したということで、気兼ね無く好きな研究テーマに打ち込める ようになった反面、お金が無い。ようやく手に入れた NEWS-1720 で 卒研のときのアイディアを拡張すべく、人工生物の研究を開始した。 また、お金の要らない基礎研究として様々なデータ型のための帰納学習の枠組 などというのもやった。 赤間さんが主催していた Workshop on Learning に毎年参加し、両方の 研究成果を報告した。理論の方は、九大の有川先生らのグループが中心になって 企画した ALT で発表できた。 人工生物の論文を人工知能学会誌に投稿したが、不採録だった。 電気系の川田さんが指導していた院生の早勢君に 行為の連合による学習モデルの研究をやってもらった。 平成3年のある日、図書館で新着の雑誌に目を通していたとき、 IEEE Expert に UCSD の Belew 教授の筆による Artificial Life II の会議報告記事 を発見した。こりゃまったく自分がやろうとしていたことじゃないの! 非常な興奮を覚え、こりゃぼやぼやしておれん。と思い立ち、論文を書いた。 平成3年の夏の情報処理学会人工知能研究会の合宿では 「人工生命が面白い」などというポジションペーパを書いた。 実例に基づく強化学習の論文2編は人工知能学会誌に載せてもらえた。 Artificial Life III には Demo session に投稿した。

平成4年創価大学 工学部 情報システム学科講師. 創価大学に工学部ができるということで、ある夜、電話がかかって来た。 創価学園でお世話になったことだし、恩返しもせにゃなぁという思いと、 私学の方が公務員としての制約がなくていろんなことが出来そうだし、 東京に戻れば、学会の研究会にも行きやすくなるとか、少々考えた挙げ句、 移ることにした。もちろん給料は上がったが、住居は家賃が高く部屋は狭く、 実質生活費は下り、というデメリットは覚悟しなければならなかった。 幸い、環境のいいところに適当な物件を見つけて10年ほど住んだ。

新設の学部なので文部省の設置審議にかかることになる。その申請書類に載ったのを こちらから報告する前に東工大時代の師匠である市川先生に見つかってしまった。 すると間もなく、国際ファジィ工学研究所にも来ないかという話がきた。 つまり、兼任である。そこは私学の融通が効くところで、創価大学の事務局は すんなり許可をくれた。まぁ設置に関わっていたから多少のわがままを聞いてくれた のかもしれない。長岡で機械系の修士学生の面倒も見ていたので、学部新設の1年後 1992年の4月から創価大学兼ファジィ研ということになった。

平成4年4月から平成7年3月までの3年間、通産省の技術研究組合である 国際ファジィ工学研究所 (Laboratory for International Fuzzy Engineering Research = LIFE) に客員研究員としてお世話になった。 LIFE 自身は平成元年からの6年間の時限プロジェクトであり、前半の3年間 と後半の3年間でテーマを見直しながらファジィ技術の基礎と応用について 組合員である企業からの出向者を中心に研究を進めた。 当方は後半3年間のロボットプロジェクトのリーダを仰せつかった。 元々、制御工学出身だし、知的なロボットの設計・構築は自分自身にとっても 1つの目標であったから、自分としてもこのプロジェクトに参加すること自体、 非常に楽しみであった。アドバイザとして法政の廣田先生(現在、東工大)と 名大の福田先生をまじえて定期的に打ち合せを行った。 その中から、「人間とロボットの共生」なるテーマが浮かび上がり、 ファジィ技術を応用したプロトタイプを作ろうと言うことになった。

LIFE にある日、三菱化成生命科学研究所の佐倉統という人から手紙が届いた。 Langton の Aritificial Life の本を読んで感動した。西垣先生に聞いたら 人工知能分野では畝見というやつが人工生命がどうのこうのと言っている らしいというのを聞いたので、、、てな感じのことが書かれていたように 記憶している。おぉ!同志!

LIFE は「国際」という名前を冠するとおり、海外への出張も比較的 楽に行くことが許された。Artificial Life III の Demo session に採録され たので、LIFE のお金で行かせてもらった。 久しぶりの海外旅行である。開催地の Santa Fe へは 成田→サンフランシスコ→デンバー→サンタフェという経路。 デンバーからサンタフェは双発の小さなプロペラ機である。結構揺れた。 その同じ便に乗り合わせたのが筑波大学生物系の徳永さんだった。 サンタフェでは徳永さんの他、富士通の松尾さん、宝谷先生、 上田完次先生、下原さん、金子さん、池上さん、朝日新聞の服部さん、 AAI社の五味さん、パトナの新堀さんらとお会いした。 ほとんどお互いに面識の薄いもの同士、 日本から来たということで、一部ではその後の連係なども考えようというような ことになった。

Artificial Life III では MIT Media Lab の F. Martin と R. Sergent による 6.270 ロボットコンテストに参加し、ほとんど Lego で遊んでいた。 コンテストの課題は結構ハードだったので、自由課題ということで、 一輪車ロボットを作った。単純なマイコン制御のフィードバックループで うまく立たせることができ、最終日のショウでも結構うけたようである。 その後、人工生命を研究の前面に押し出し、積極的に取り組んだ。 佐倉さん、星野先生、徳永さん、河口さん、会津さんらと 人工生命研究会をでっちあげ、ATR での人工生命シンポジウムへと 盛り上げていった。

平成6年にやっと「博士(工学)」を出身大学の小林重信先生にお世話になって 取得した。論文題目は「実例に基づく強化学習法と制御および人工生命への 応用」である。大岡山の百年記念館で行なわれた学位記授与式では、 大学の後輩に当たる長尾確君といっしょだった。

平成7年同助教授. 大学では、卒業研究生に人工生命の研究をいろいろやらせてみた。 創価大学はちょっと変わった大学というか、偏差値で志望校を決めるというより 創価学会員の子弟が創立者を慕って、あるいは、親の勧めで入ってくるケースが多い。 そのためか、学生の学力にはかなり幅がある。 一般入試の合格ライン偏差値は、中堅クラスではあるが、 十分東大合格の実力がありそうな人も学年に1人、2人いたりする。 たまたま卒研の配属でそういう優秀な学生が来ると、張り切ってしまうが、 そうでないと、いろいろ苦労する。一部の私学では卒研を1人の教授当たり2桁 あたりまえのところもあるようなので、それに比べれば学生に手取り足取りできなく もない点は恵まれている。

そんな中で、いくつか面白い研究成果も得ることができた。 1つは、学習能力の進化に関するシミュレーション実験。 環境変動の大きさやゆらぎ幅が学習能力の進化に大きな影響を与えることを、 はっきりと示すことができた。 種子散布のシミュレーションも面白い結果が出た。 つまり、分かりやすく言うと、タンポポとピーナッツ、どちらが適応的かというのは、 環境の変動の大きさに左右される。その意味でススキやスギナは最強。

20世紀最後の年、西暦2000年、平成12年に大学から在外研究の機会をもらい、 チューリヒ大学のロルフ・ファイファー先生の人工知能研究室に半年お世話になった。 当初の研究計画では、ロボットに進化や学習を組み込んで実機での 進化実験を行なうつもりだったが、ビザのトラブルやら、 いろいろあって、結局、アート応用と強化学習のシミュレーション実験で 終わってしまった。もちろん、スイスは十分堪能させて頂きましたが。

そのときのつながりで、今でも欧州で国際会議があるときは、 可能なかぎりチューリヒに寄って、ディスカッションの機会を設けている。 2003年の秋にドルトムントで開かれた ECAL のついでに立ち寄った際、 研究員のダニエル・ビシグ君と共同プロジェクトをやろうかという話しになり、 それ以来、彼とのメディア・アートプロジェクトが進行中である。

2001年の6月に近所のミニ開発でできた住宅に引っ越した。晴れて家持ちと なった。と同時にローン生活の始まりでもある。月々の返済はそれまでの 家賃程度。欲をいえばもっと広い家が欲しかったが。

3年間の苦闘?の末、平成18年の秋にようやく賞を貰うことができた。 しかも、2つ。1つはスペインテレフォニカ社が主催する 人工生命とアートのコンクール Vida 9.0 で推薦 (Honorary Mention)。 もう1つは文化庁メディア芸術祭アート部門で優秀賞である。

研究面では人工生命を中心にいろいろと手を出している。 詳しくはこちらを参照してください。